zanzibar 31-1. dec. 2002

 

2002年最後の一日は、海に面した窓から差し込む柔らかい日射しのモーニングコールで始まった。キャー恥ずかし〜。どんなに大袈裟に一年の最終日を意味付けしたって、勝手に地球は廻るし、お天道様だって昇ってくるもの。サラリーマン故の盆暮正月GWの旅行だが、海外では当然どれも関係なく人は生きているのだ。独り旅ならではの意味付けもここザンジバルじゃ空回りもいいところだ。とは言え今日が大晦日なのも、わしら日本人にゃ大事な事実だ。などと自分のアタマの中をグルグル取り留めのない「海外旅行に於ける、旅人と大晦日に関する考察」などと言う割とどうでも良いテーマに思いを巡らせつつ、面倒臭そうに蚊帳を払い、クルッと回転しながらベットから飛び降りた。窓の外では、まだ昇り切らない低い太陽が、緩く辺りを照らしている。起きたてのボケ頭で暫く眺めていると、潮の引いた海の先の方で、小さな点にしか見えない大勢の人影が蠢いている。側まで行くと、きっと良い写真が撮れそうだなぁ〜と思うが、あまりの距離と寝起きのだるさに負けて更にボォ〜ッとしてしまう。2003年最後の寝起きのボォ〜ッだ。

朝飯はいつもと同じパンにフルーツ、チャイ。少し違っているのは、昨日旨いと褒めたパインが多めに盛ってあること。

8:30、キジムカジという島の最南端でのドルフィンツアーの出発時間。しかぁ〜し、誰も来やしねぇ〜。ツアーをアレンジしたウニマスターイッサは、ついさっき顔を出して「もうすぐだから」などと、適当な事を言って何処かへ行ったきりだ。来る気配が全く感じられないので、カメラ散歩と洒落込む。子供軍団がすぐ前の浜で、手作りの木の車で遊んでいる。またしても「NISSN」の文字が誇らし気に彫ってある。木製ではなく、洗剤か何かの容器で出来たのもある。素朴すぎるぜぇ〜、お前等!荷台に砂を満載にして楽しそうだ。

もう9:00も回った頃イッサが戻って来た。案の定「今日は一杯だ、明日にしよう。明日は天気ももっと良いしサイコーだぞ!」などと、良くあるタイプのお調子者度100%の台詞を切り出して来た。明日は正月、何もしない「贅沢な退屈」などをひとつ堪能してみようなどと思っていたが、それが今日でも何の問題も無いと思い直す。「贅沢な退屈」で優雅な大晦日。そう悪くも無い。

浮かれたツアー客を満載にしたトヨタのバンを見送ると、早速「贅沢な退屈」がやって来た。さ〜て何をしたものか?なんて考えてみたって写真&散歩しかないのだ。しかし今までとは少し趣向を変えて、女を撮ろう。行き当たりばったりでは中々撮れないのが、大人の働く女だ。働く女と言うのは迫力があるだけに、声を掛けるにも勇気が必要。しかもこの村はほぼ100%がムスリムで、例のイスラムルックだ。勇気も余計に必要と言う訳だ。まあ先入観ってやつなんだろうけどね。

ビーチを右側に向けて歩き始めると、早速屈み込んで何かを捕っているふくよかな女の人がいた。無心で砂を掘っているところへ「ジャンボ〜」と声を掛けると、暫くの微妙な間の後で下を向いたまま「ジャンボ〜」と素っ気無く返って来た。手強そうな気配で無心に貝を掘っているが、「写真撮らせて下さ〜い!」と精一杯の無邪気さで話し掛けてみる。通じないのは覚悟の上だが、「ハァ〜ッ」ってな感じで顔を上げてこっちを見上げるのだ。なんか嫌なムード満点だ。しかしこちらを見てくれれば可能性も無きにしもあらず。すかさずカメラを指して「ねぇ〜いいでしょ」なんて無理矢理なお願いモードで押す。唐突に現われた訳の分らん外人に困惑気に「ミー?」と訝し気だ。しかし、その瞳の奥からは僅かながらの好奇心が見て取れる。勝手な解釈ながら少し和らいだところで「ねぇねぇ〜いいでしょ!」と無邪気モード全開だ。後はかなり無理矢理目だが、とにかく一枚パチリ。そこで怒り出さなければ、OKの印だ。思った通り満更でもない表情の彼女。体勢を立て直し少し落ち着いてもう2枚。パチッ、グリグリ、パチッ。ノリとリズムで場のテンションを上げながら、続ける。そうこうしてると友達らしき別の女性が頭に海藻の入った大きな袋を載せて近付いて来た。おぉ〜ナイスなタイミング!この撮影のムードに巻き込んでしまえとばかりに、無邪気モードの連射だ。ファーストコンタクトはまずは成功か?相手も二人になれば心強いのか、笑顔が増えるのだ。

潮が引いていて、かなり沖の方まで歩いて行ける。沖の方では今朝部屋の窓から遠くに見えた無数の人々の働く姿が見える。水たまりのようになった海をジャボジャボと進んで行く。粘度質の白い砂が心地よく便所ぞうりの隙間を縫って素足に絡み付いて来る。歩き難いがニュルニュルと気持が良い。罠のようにそこら中にころがるウニに気を付けながら沖を目指す。が、しかし、予想以上に柔らかい砂に足を取られ、至近距離にあったウニをあっけなく踏んでしまった。激痛と共に時間が一瞬止まった。慌てて問題の部分を見ると左足の外側に鋭いやつが一本突き刺さっている。大した事では無さそうだが、こういう風な海でのちょっとした傷ってなかなか治らないんだよね。チクチクと痛む足を気にしつつも、みんなが忙しそうに働いている沖へどんどん進んで行く。目指す沖の方では、大きな袋に海藻を詰め込んで村へと運んでいる。かなりの人数が沖まで出て来て働いているようだ。ちんたらと歩いている横を急がしそうに何人もすれ違って行く。「ジャンボ〜!」と声を掛けるのだが、労働の迫力になかなか写真を撮るに至らないのが歯痒い。それでも、声を掛けやすい顔を選んで「一枚撮らせて!」と、無邪気な振りでお願いしてみる。「いくら払う?」と、当たり前のように言われてしまう。しかし、写真を撮るつもりでここまで来たというのに、小銭を忘れてしまった。この歩き難い海を宿まで戻るのはしんどい。しんど過ぎる。金は後で渡すからと交渉を始めるが、なかなか頑固な連中だ。今出せ!すぐ出せ!たくさん出せ!ってな風でなかなか写真モードにはならないのだ。それでも、凹まず挫けず、ひょうきんそうなおばちゃんに狙いを定め、しつこくお願いする。「撮らせてくれたら、この海藻の袋おれも運ぶからさぁ〜!」てな調子のいい事をゼスチャー付きで言いながら、笑顔とやる気で拝み倒す。ポケットに小銭さえあればなぁ〜。しかし、小銭でパチリじゃぁダメなのもわかっているのだよ。そんな上っ面でなんて正しい風な事を考える一方で、相当に失礼且つ迷惑な事も自覚している。だってそうでしょ、外国から遥々来たんかなんか知らんが、労働の現場に来て、チョロチョロとうざったいに決まってるのだ。おれだって、会社のマックの前でテンパってるとこに、訳の分らん外人が訳の分らん事を横でグチャグチャ言ってたら、「ぶっ殺すぞ!カスッ!」てな事になるけんね。こういうのが旅行者の「エゴ」なんだろうね。話しはちょっとばかし反れるが、最近は「エコツアー」なる妖面なモノがたくさん企画されてそれなりに盛況らしいが、それこそまさに「エゴツアー」でしかない。環境にやさしいツアー旅行なんてありはしないだろ。本気で環境改善に貢献したいなら死ぬしかないのだ。なにしろニンゲンが多過ぎるのが、最大にして根本的な問題なんだからね。環境を語りながらも、一方でクサい屁こいてちゃしょうがない。解決に一役買う勇気など無いくせに、エコロジスト面で平気なドブ野郎には成りたく無いね。

それで思い出したがピーター・ビアードというアフリカ狂いのカメラマンがいるが、そいつの本によると、ゾウは放って置くと自分達の周りの草を喰いつくしてしまい、最後には群れごと死んでしまうそうだ。象には一頭の象を養うのに必要なある一定の土地の広さがあるのだが、ナイロビでは人間の居住区が郊外に果てしなく広がっていったために、象に必要な生活圏が確保出来ないそうだ。そこで恐るべき優しいニンゲン様が考え出した名案と言うのが、その残った狭い面積の土地で生きる事の出来る数まで親切に象をぶっ殺してあげようと言う事らしいのだ。普通のココロと感覚でその話しを理解しようとしてみると、増えたのは人間で、そのせいで迷惑を被ったのは象。その象がよりよく生きるためには原因である人間が間引かれるべき。しかし実際は間引かれるべきは象だという。この話の最も不思議な点は、象のためにわしら人間が象を間引くと言う事に尽きる。正しく言い換えて欲しい、人間のために象を間引くのだと。野生の王国など、人間様のアクセサリー程度のものだと。人間は如何なる場合にも一歩たりとも退く気など無いと。アフリカにどっぷり漬かってアフリカそのものを愛しているはずの連中でさえ、その愛と正義の実体はこのような自分勝手なモノでしかない。素直に認めよう、人間こそが一番だと。そして、その中でも自分こそがNo.1だと。それを自覚した上でわしらはどれだけの正論を吐けるというのか。絶対的な真実や正義というモンがあるとしたらそれは「自分が一番大事」と言う至極在り来たりで当り前のモンだろう。せいぜい半径3m程度にしか届かない正論や正義などで世界中を覆い尽くす事など出来ないのだ。「環境のため」なんて言葉がなぜか虚しく空を舞うのも、ホントはみんなすでにマイランキングNo.1が何かを自覚しているからなのかも知れない。自分が立つ舞台は綺麗な方がいいに決まってるが、その舞台で一番邪魔なのが自分だとしても、認めたくないのが人情というモンだ。とまあ長くなってしまったが、とにかくわしは今、相当に無礼者だ。だからせめて、カワイイ無礼者になるしかないのだ。その無礼者が撮る写真にどんな意味があるのかなんて分らんよ。ただ、わしのささやかな思い出にはなるだろうがね。まあそうこうやってる甲斐あって何とか撮らせてもらうのだった。やっぱ大変だよ。自分も気分良く、相手も気分良くってのはね。

ひとしきり撮影を終えて海を歩いていると、海藻の畑があった。くるぶしが浸かる程度の水の中に糸が整然と格子状に張り巡らされていて、海藻の苗のようなものが、満ちて行く潮にユラユラと揺れている。この海からの恵みを最大限引き出すために、相当な海への理解が感じられる。この土地で産まれて死んで行く人達ならではの知恵だろう。愛してる振りで象をぶっ殺す誰かさんとは本質的な違いを感じる。土地に縛られて生きる故の知恵だ。本来縛られているはずの目に見えない鎖を断ち切り、金やシステムの風に吹かれて好き勝手に振舞うわし等。それを「自由」と呼び、その流れを「グローバル化」などと呼んで浮かれている。ただの海外旅行に来てこんな風に浮かれたり勝手にほろ苦い現実に思いを馳せていられるのは、もちろんおれが「自由なつもり」の側にいる事をはっきりと認識しているからだ。ヌルヌルジュボジュボと不様に足を取られつつ、またしても思考の迷路で右往左往だ。